たまにはぼやきたくなることもありますよね。誰だって
小説を書くようになってもう何十年たっただろうか。
勿論その間長い間空白の期間はあったが。
何故小説家になりたいか時々自問自答することがある。
小説家になりたいんじゃなく、有名になりたいだけなんだろうって。
小説を書いていると気持ちが落ち着く。
仕事で嫌な事があっても自分の逃げ場所として小説家という逃避場所があった。
あったというより敢えて作ったといった方がいいかもしれない。
有名になりたいとか、お金持ちになりたいとか、そんな気持ちで小説家になりたいとは思っていない。
社会人として、家族を養い、子を育てそれなりの成果は果たしてきた。お金も欲しくないといえばウソになるが、欲求の一番では当然ない。
じゃあ、小説家はなんでなりたいんだ、名誉欲か、あるいは、、
時々疲れ果て、生きている事それ自体がどうでもよくなる気持ちに襲われることがある。
自殺願望とは違う。
しいていえば、生きてるその事に飽きたというのが一番似合う言葉かもしれない。
死にたいというより、死を受け入れ、だからこそその死に方にかすかな願望を持つようになった。
できうるならば誰かの為に死にたい。
戦国時代主君の為に自らの命を犠牲にした武士はたくさんいた。
心理学的に突き放せば、洗脳、あるいは自己満足
なんとでも説明はつくが、とにかく何であれ(何かを為すため)に自らの命を賭していった。
このある意味ばかげた行動に、妙に共感を覚え、憧れさえ抱く。
小説家になりたいじゃなく、現実からの逃避手段がたまたま、私の場合小説を書く事だった、
つまるところそんな結論なんだろうが
最近書きてになるほうが、読み手になるより希望者が多くなっていると聞く。
自己発言の場がなくなってきたのだろうか。
ある意味個人同士の関わり合いが希薄になり、個人よりいきなり集団に語りたいと、そう思う人間が増えてきたのだろう。
小説をあまり読まず、でも小説家になりたいという意味不明の若者まで、それも少数ではなく、多く出現してきていると聞く。
純文学いや、私小説とやらはいまやも死語になりつつある。
エンターテインメント性がなければ、本は読まれない。
リアリティーの概念があやふやになり、奇抜性さえ合理的であれば
リアリティーは二の次になって来た。
小説という世界は、確かに様変わりしてきた。
読むという行為の徒労に、人々は価値を見出さなく、いや見出させなくなってきた。
文学は、いや、小説はもう限界なのだろうか。
書きたいという欲求は、かっこよく言えば、お金や女より私も興奮させる、しかし書き終わった時のあのむなさしは、いったいなんなんだ。
人生に希望を見いだせなくなって来たのではない。
生きることに慣れ、好奇心の固まりが死という無防備で甘美な世界を私に求めて来た。
それはほんの一瞬の瞬きではあるが、確かに存在する。
宇宙の果てはどこなんだと、そんな漠然とした(知りたい欲求)が死の現実とはどんなことなんだ、無とはどんな世界なのだ、という知りたい欲求と交わり、時折、自分自身が怖くなる。
私は壊れていくのではないのかと、、