fuuraの小部屋

小説や本について寡黙に妄想。小説家になろうのサイトで人気を得る研究。小説家になるにはどうしたらいいかを研究。でも結局は、まずは小説と詩を書こう 。

吾輩は猫であるを・・もう一度しかたなしに読んだ感想

トリストラム・シャンディという小説をご存じだろうか。
18世紀イギリスの小説家ローレンス・スターンが書いた
小説だ。内容は荒唐無稽、奇抜、一貫したストーリは無く
「意識の流れ」の手法を先取りしたと言われている作品だ。

人間の知識は静的な部分の配列によって成り立つものでは
なく、動的なイメージや観念が流れるように連なったもの
であるとする考え方だ。

日本の作家では川端康成が「針と硝子と霧」「水晶幻想」に
おいて実験的に用いているが成功しているとはいいがたい。

実は漱石、ローレンス・スターンに傾倒していたのだ。
先輩や仲間から、小説を書け、書けと勧められ、やむなく
書いたのが吾輩は猫であるなのだが、もともと最初の一編
でやめるつもりだった。
書いた時はうつ状態だったし。

ところが、ローレンスに傾倒していた漱石の作品は最初の
掴み、猫を主人公にするという、多少ローレンスを意識した
作風を冗談のつもりで書けば、これが受けて、挙句書くの
をやめるにやめられなくなったのは御存じのとおり。

うだうだと訳の分からぬことを延々、しつこく語り読者を
煙に巻くローレンス流作風が漱石に合うはずがない。
最初は自分の見解を猫の目を通し、説教調、あるいは講談風
あるいは美文調と、わざと辻褄があわぬよう、合わぬよう
書き上げていくが、根っからの真面目人間、さすがに辛くな
ってきたのだろう、並行して他の作品も手掛けるようになっ
てきた。

漱石の文学を志すという意味で書かれた作品は吾輩は猫である
以降に書いた作品なのだが、どうしても処女作吾輩は猫である
漱石の代表作と言われるのを聞けば、草葉の陰で漱石、苦笑
しているのではないだろうか。

日頃の考えを無茶苦茶適当に書いただけの作品なのにと。

夏目漱石は博学だ。
天才的な頭脳の持ち主と言われる。
記憶力も抜群だと。

その、漱石の根底に流れるのは個人主義
あるいは男女の個人主義

時代はとにもかくにも男尊女卑の時代。
しかし合理主義の漱石には納得がいかない。
納得はいかないが、幼いころより叩き込まれた男尊女卑
の概念はそうたやすく消えるものではない。

男と女の平等とは何か。
本当に平等なのか。
平等でやっていけるのか。
女が絡めば男同士の平等は崩れる。
この摩訶不思議な心理はなんなんだ。

マクロの個人主義、平等主義についての思想については夏目漱
石の右に出るものはいなかっただろう。
その博識は他を圧倒させる知識量だ。
漱石個人主義を論破できるものなどいなかったのだが、唯一
いたのが、皮肉なことに漱石自身。

実生活ではこの個人主義に沈没。
特に恋愛面において。

マクロの個人主義は吠えればいい。
しかしミクロでの個人主義、いわゆる具体的な生活レベルでの
個人主義漱石は表にこそ出さないが心の中で葛藤していた。
現実にそぐわないじゃないか・・
個人主義はミクロに近づけば近づくほど破綻する。
特に女性相手では。

女は魔訶不思議なもの。
男より劣る生き物ではないが、しかしその本体はベールに包
まれ謎だらけ。

漱石の作品は、吾輩は猫であるを除けば、まさに男女間の
平等を題材に、個人主義の底辺に潜む闇をあぶりだそうと
する作品が多い。
平たく書けば三角関係、そして不倫。

漱石自身の女性関係は淡白なものだ。
弟子たち、嫁の証言からも、妻一筋の男だったそうな。

三角関係のドロドロを、漱石は実体験無しに書いていたの
だろうか。否それはない。
若き頃の失恋で、漱石は恋愛に対し、否、女性に対しすっか
り臆病になってしまったのが因とする説もあるが、今回は
吾輩は猫であるの書評、この件は置いておくことにしよう。

さて吾輩は猫であるの書評に戻ろう。
この小説、先にも書いたように、漱石が書こうとしてイメー
ジした小説ではない。
とりあえず、まあ書いてみようかと書いた作品だ。
いわば、少し(おちゃらけ)て書かれている。

面白いことにこの小説、猫に名前を付けていない。
わざわざ最初に、断り書きまでつけて、吾輩は猫である
名前はまだないと・・宣言している。

名前を付けなかった理由については、色々論評されているが
つまるところ、名前を付ければ読み手に猫のイメージがつい
てしまうからと言われている。
吾輩という尊大な表現に続く猫という(畜生)のイメージを
読者自身に感じてもらうためにこの名無し猫は成功したとも
言われている。

私が思うに漱石が猫に名前を付けなかったのは、猫の概念を
個人主義の総体として漠然と意識し、わからなかったからと
思う。
ある種恐怖の総体でもあったのではないのだろうか。
わからない物に対する恐怖。
この総体を猫に押し込め、漱石自身が猫に問いかけているのだ。

何なんだ、この世の中は
何なんだこの不条理は

最後に猫を殺してしまうのも漱石らしい。
書くのが嫌になったから猫を殺したとうそぶいたそうだが
そうではないだろう。
何かが吹っ切れたのではないだろうか。

気ままな猫は自由だ。その自由な猫に窮屈極まりない名前など
そもそもつけること自体おかしい、意識無意識を別にし、漱石
感覚としてそう閃いたのではないだろうか。
もしそうだとすると、一つ頷けることがある。

嫁にも名前がないのだ。
ただ細君としてしかでてこない。
他の登場人物には名をつけているが、猫と細君には名をつけて
いない。

作品中何度も出てくるし、決して脇役ではない。
重要な登場人物だ。
この細君に名をつけなかった理由・・・

案外この辺に夏目漱石の(病んで暗い部分が)推察できるのだが
残念なことにその部分にメスを入れた評論家はまだいない。

漱石は作中の人物の名にはこだわったと聞く。
ならば処女作とはいえ、なぜ細君にだけ名をつけなかったのか
くだらないと思われるかもしれないが、私にはここにこそ夏目漱石
研究課題が残っているのではと・・・まあ

アイスなど食べながら思うのだが。
吾輩は猫である、とにかく読むにしんどい作品だ。


何度も言うが、漱石さん、これ書いた時、読み手に理解できな
い小説こそ素晴らしい作品だと思ってた節がありますから、あ
まり裏の裏を読み過ぎると、漱石さんの罠に落ちる気がするん
ですが。

読むにしんどい作品
これに尽きますよ
吾輩は猫であるは・・・。