古き良き本を読んでみよう 歌野晶午作 世界の終わり、あるいは始まり
世界の終わり、あるいは始まり の書評
(ネタばれ注意)
これを推理小説と思って読まないこと。
時間軸を切り替える、人間小説として読む事をお勧めします。
小額の身代金を要求した誘拐事件が発生する。
やがて子供は死体で発見され、第二の殺人事件が、、、
視点は第二の殺人事件以降、富樫修の視点で語られ始める。
顔見知りのあの子が誘拐されたと知った時、驚いたり悲しんだり哀れんだりする一方で、我が子がねらわれなくてよかったと胸をなでおろしたのは私だけではあるまい。
第一のエピグラムである
悲惨な事件の連鎖はどこまで続くのだろう。
しかしわが家は相変わらず平和だし、この先もずっと平和であり続けるはずだ。
第二のエピグラムである
ここまでは謎解きを期待させる本格推理小説の体である
未来は運命でなく
神が賽を振った結果でもなく
ましてや人から与えられるものでもなく
己の意志で切り拓くものである
第三のエピグラムだ
いよいよここから、運命の切り開きの旅が始まる。
まさしく旅だが、これは、時間軸の旅ともいえる
この作家が後に(葉桜の季節に君を想うということ)で賞を取ることを知れば、この小説の実験的思惟が、後の作品に色濃く影響したことは想像に難くない。
この作家の精神構造は、確かに従来の推理作家と一線を帰す。
作品の中心にプロットの意外性を重視する傾向は、時として作家自身の筆を止めてしまう。
意外性など、探してぼろぼろ出てくるはずはなかろう。
類似性の縁をきわどく舐めながら、オリジナリティーを出す、、
作品は、音楽にしろ、絵画にしろ、小説にしろ、まずは模倣から
始まる。
模倣の壁を突き抜けたとき、個性と歴史の融合から、オリジナルと
しての作品が出来上がる。
したがって、どんな作品も(模倣)と言うおおまかな配色はついてまわる。
この作家の良くもあり、悪くもあるところは、このオリジナリティー、、
もっと簡単に言ってしまえば、(意外性)を追求するあまり、時として結論が曖昧になってしまうと言う事か。
小説に結論を求めるのはナンセンスだ。
確かに言える。
しかし、推理小説は例外だ。
読者は、筋道立てた、論理を期待しているのだ(全員ではないが)
これは言わば、推理小説の(お約束)と言ってさしつかえない。
この(お約束)自体を、意外性の道具として使ってしまったこの作家の技量を、果たして褒めていいのか、けなしていいのか、判断に迷うところだが、流れるように、追い立てるよう、これでもかと、時間軸を振り回し、読者を引っ張って、たどり着いた お約束の(崖上のシーン)をスパッと省きあとは、君らで適当にかんがえて、、、では。
置いてきぼりを食らったような、一抹の寂しさ。
本の向こうでアカンベーをしている作家、歌野晶午の表情が想像できるだけになおさら悔しい。
悔しい、、そう思った事で、多分勝負は作家の勝ちなんだろう。
ここは素直に(まいりました)と頭をさげるべきだろ
驚き呆れ、そして脱帽。
そんな作品だ
- 作者: 歌野晶午
- 出版社/メーカー: 角川書店
- 発売日: 2006/10
- メディア: 文庫
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