文学と占いは相通じるものがある

小説家になることを諦めた男のつぶやきです。

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アチーバスというボードゲームで遊んできました

大阪文学学校いち生徒のfuura(ふうら)です 。

大阪文学学校が楽しいものですから ボランティアで宣伝活動をすることにしました(笑)

 

 

アチーバスというボードゲームの会に参加してきた。

たまたま近所で用事があり、何かな?と思い。

 

アチーバストは主催者が説明するには

「Achieve (成し遂げる) + Us (私たち) から生まれた、ゲームの名前。
「自分がいちばんにあがる」

「他の人をだしぬく・負かす」

と勝ち負けを競うのではなく、チームのメンバーで助け合って、ひとつのゴールを目指します。

みんなで達成することを目指すから思いやりや協力の精神が磨かれます。
例えば、皆で目標を達成するために自分はどんな貢献ができるかを考える。
周りがどんな風に自分を助けてくれているか感じる。
さらに皆で目標を達成するためには、自分がどんな風にプレイしたら周りが自分を助けやすいかを考えることも大切など、チームプレイについて、色々なことを考え体験する場となります。
そして、自分の考え方の癖や強み弱みなどに気づくきっかけになります。

だから、約1時間のゲームで初対面の人ともとっても仲良くなれるアチーバス……ぜひ一度体験してみてください。


アチーバスで使うカードには、歴史上の人生の成功者に共通する、「充実した人生のための17原則」が書かれています。
プレイ中にカードの内容を声に出して読んでいただくことで、アチーバスを繰り返しやると、無意識のうちに少しずつ17原則を覚え実践できるようになっていきます。

 

だそうです。

出席者は小学五年生の女の子を含め五名

最初は説明を兼ね全員でゲーム開始

小一時間で終了

 

ボードゲームを介して人生で協調がいかに大切かを教え合おうという趣旨らしい。

 

個人戦は四人で行うゲームなので、主催者除きの四人で開始

色々悩みながら、全員がゴール出来、終了した時には確かに仲良くなっていた

 

このゲームを何度かすれば協調性がやしなえるかもしれない。

 

少し注文をつけるとすれば、もう少しゲーム全体の配置や現状をメンバー全員が確認できるシステムにするともっと面白かったかもと、思ったが、協調性を養うためにわざとわかりにくくしているのかな?とも思ったが

やはりわかりやすいほうがいい

 

でも、面白かったことは間違いない

 

ボードゲームは、何しても面白いもんな

 

今日は麻雀。麻雀もボードゲームの一種だもんな

なんか遊んでばかりいる(笑)

 

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大阪文学学校では只今、体験入学を行っています

9月17日(火)昼・夜

9月19日(木)昼・夜

9月24日(火)夜

9月27日(金)昼・夜

 

いずれも

昼の部(14時~16時)

夜の部(18時半~20時半)

に開催します。
事前の申し込みがなくても参加できますが

できれば予約の電話かメールをしてあげてください。

(どの日も無料です)

 

文学に興味のある方、一緒に生徒してみませんか 

大阪文学学校HP

(目次)大阪文学学校について知りたいこと全て教えます

 

読書会 むらさきのスカートの女

大阪文学学校いち生徒のfuura(ふうら)です

大阪文学学校が楽しいものですから ボランティアで宣伝活動をすることにしました(笑)

 

 

大阪文学学校チューター(講師)も参加しての読書会に参加した。

参加者は、ほぼ大阪文学学校の卒業生か現役の生徒

12名での合評会

 

芥川賞受賞作品、しかも結構評判がいい

選考者もそこそこ褒めている

巷の感想もさほど悪く無い

 

私も一読し上手いと思った

エンタメと思わせる軽いタッチでありながら

その実私小説っぽさも残している

 

まさにぎりぎりのラインで攻めていた

この書き方は上手いの一言

中々出来るものではない

計算しつくしたのか、あるいは天性なのか

とにかく構成の妙が光った

 

光りすぎて作為すら感じてしまいそうになったが

果たしてそんな評価も出ていた。

 

驚いたのは12名のうち半数近くが、コケ降ろしに近い評価だったこと

私的にはどんな批評で悪く言うのか、それも聞きたかったのだが

まさか半数がコケ降ろすとは思わなかった

 

参加者は全員作家を目指している強者だ

べた褒めはしまいが、されどけなす要素も見当たらないと思っていたら

まさかのコケ降ろし

いやあ、びっくりした

 

中には今までの受賞作で一番の駄作だと決めつけ、読む気すら失せたという人もいた。

 

どう思うか、批評は自由だし、批評はためにもなる。

その為に読書会に出席しているのだが、この作品、そこまでコケ降ろす作品かと思わずメンバーを見てしまった。

 

けなしの批評を言う人には特徴があった。

純文学を頑なに目指している書き手

お年を結構召されている人たち

そんな方々が、酷評を披露された。

 

手放しでほめた私、黙っていようと思ったがたまらず口走ってしまった。

 

リアリティーなどこの作品に求める見解がそもそも読み方を誤っていると

彼らの受け付けない主な理由は「リアリティーがなさすぎると」と受け取ったからだ

だから

あはは、言っちゃいました

案の定反撃の嵐

そりゃそうでしょう

 

皆私より人生においても、大阪文学学校歴においても

先輩ばかリ

その人達に「あなたがたが考えるリアリティーの基準は古すぎる」といってしまったのだから。

 

この作品に、現実にはあり得ない話とか、筋立てに矛盾があるとか

私にいわせればまったく頓珍漢な批評をしている

作品の意図に似合わない感想を持って、コケ降ろすのは文学的センスの争いだ

 

ここは譲れない

 

「誰がリアリティーがないと言った!」と総攻撃だ

だって、現実にありえないから・・・てのはリアリティーが無いってことじゃないの?

 

さすがに半数の褒めた人達もこの議論に参戦だ

ここで私は身を引いた

これ以上言えば、恨まれること必定だ

 

後は他の仲間達に譲った

上手いと褒める評価をした人達の反撃開始だ

なんとなく若者対年寄りの対決になった

 

結局お互い相入れず時間切れゴングが鳴ったわけだが

中々面白かった

私の一言が、討論に火をつけたのだから読書会としては大成功だ

 

売れるために書いている作為がミエミエで鼻につくという意見もあった

 

おいおい、売れるために書くことのどこが悪いんだ

そもそも売れそうな小説でなきゃ受賞できないでしょうに

村上春樹など自分は職業作家と自ら言っている

 

文学は金儲けのためにするものじゃない

芸術なんだ

金儲けの道具にするなと、昔はよく叫ぶ御仁がいた

 

しかし最近の若者は正直だ

売れてなんぼのもんだろうに

売れなきゃただの、負け犬の遠吠えだろがと

 

純文学が盛りの頃、伊藤整が「小説の方法」でいみじくも言った言葉ある

純文学を志す日本の作家達を「逃亡奴隷」海外の作家を「仮面紳士」と区分して論評をしている。

 

「社会を放棄して狭い文壇のなかで体験を告白しあった私小説家たちと、社会の一員として生きるために仮構を必要とした西洋の作家たち」

 

純文学は廃れるべきして廃れたのだ。

そこに目を向けず、いたずらに純文学こそ文学の幹だと思う考えを私はもろ手を挙げて賛同はできない

 

勿論純文学も素晴らしい

小説の技法として取り入れる要素はいくらもある

しかし技法であることを忘れてはならない

 

小説の中に自分を埋没させ、小説と同じように作家も沈んでしまえば意味がない。文学は現実の中に潜む人間の共感性を、非現実を使って描くアイテムの一つだ。決して文学が人間そのものであってはならない。

作家が堕落して、その堕落の中に光るものを見出すなんて、それこそ小説の世界の話だと思う。堕落は単に堕落そのものであり、その中に文学的価値などかけらもない。

 

堕落の中であっても己をしっかり見据える目を持っていて、初めて文学になりうるのだ。

そもそも小説を、私小説と一般小説に区分けする思考パターンがおかしい

私小説であれ、一般小説であれ心に残れば名作だ

 

そうそう、彼らはむらさきのスカートの女は後世に残る作品ではないとも評論していた。ついでにこの作品を選出した選考作家たちも、おかしいよなと論じていた

 

私は今村夏子さんが稀有な作家だと思う

素晴らしい作品を書く、後世に残る作家だと思う

 

どちらが正しかは歴史が証明してくれるであろうが

おしむらくは

今日のメンバーさすがに歴史の答えを見るまで生きていることはできないだろう

 

幽霊になって見に来ようと思っている(笑)

 

 

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大阪文学学校では只今、体験入学を行っています

9月17日(火)昼・夜

9月19日(木)昼・夜

9月24日(火)夜

9月27日(金)昼・夜

 

いずれも

昼の部(14時~16時)

夜の部(18時半~20時半)

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村上龍 五分後の世界 を読んで

村上龍五分後の世界」を読んだ。
読書会の課題本だったからしかたなく。


村上龍の作品は「限りなく透明に近いブルー」以外読んだことがない。
この芥川受賞作の「限りなく透明に近いブルー」が全く心に響かなかった。

なんだ芥川賞ってこんな安っぽいものかと、青臭い作家志望の若者が抱く感想を私も抱いた。いわゆる嫉妬ってやつだ。

 

だから私にとって村上龍はテレビで見る「カンブリア宮殿」の村上龍しか知らない。

作家を諦めて、経済学者にでもなったのかと思っていたら、そうでもないらしい。沢山の本も出版している。でも読んだことが無い。

なによりも文壇の地位が凄い。

今じゃもう、大先生だ。

 

私は、よほど最初に読んだ「限りなく透明に近いブルー」が気に入らなかったのだろう。

 

そうそう「五分後の世界」の感想だった。

 

この小説、敢えてストーリを書く必要もないだろう。
延々と戦闘シーンを書きなぐった、小説だから。

 

一読後、思ったのは、村上龍ってこんなミーハーな小説家だったのかと
思わず鼻白んでしまった。

 

しかし文章は上手い。憎らしいほど上手い。頭に来るぐらい上手い。


芥川賞をとった時みずみずしくはあるが、ねちっこいあの文体。
ねちっこさは変わらない。おかげで思い出してしまった。
私はこの執拗にくどい、文体が嫌いだったのだ。

 

しかしあの頃に比べ、文章の滑らかさはさすがだ。洗練度合いが凄い。
そこいら辺にいる、エンタメ作家に比べれば言霊の上質さは認めなければならない。
文才ある作家が、戦闘シーンを描けば、こうも上手く描けるのかと感心もした。


おそらく全体の八割、否九割近くを戦闘シーンだけで、いわゆる描写だけで
作品を作り上げてしまう技量に、さすがの作家たちも唸ったのだろう。

こうもしつこく、かつうまく、飽きさせない戦闘シーンは書けない。

 

しかし作品自体に啓蒙性はない。何を言わんとしているのかわからない。


民族主義を称賛しているようで、その実否定もする。
どちらかに寄っているフリをして、深読みすれば、中立のスタンスを読者に、特に知的読者に見せつける。
この技法は鼻につくが、中々出来る技ではない。

もう実力は認めざるを得ないのだろう。

 

現にこの作品に対する作家仲間からの酷評はさほどなかったらしい。
嫌われる作家でありながら、酷評を抑えるだけの作品かといえば、そうは思えない。けなそうと思えば粗は見つかるはずなのに、そこそこ評価している。


絶賛まではいかないか、総体的に褒められている。
その高評価の理由が私にはよくわからないのだ。

けなされもしない。。かといって大きく褒めてもいない。

しかし凄い本だと、巷の噂はそう流れている。

 

ひょつとして、忖度されたのかとも思ったが、村上龍がこの作品を書いた時期
まだ忖度されるほど文壇の地位は高くなかったはずだ。

 

とにかく首をひねる。
この作品のどこが面白いのか、私にはわからなかった。
文章は綺麗で、読み易く、適度にねちっこい。しかしボヤンとしている。

 

読書会で面白い話を聞いた。
彼が通っていた学校の同級生の話を知人がまた聞きしたそうだ。

 

村上龍は賢かった。
賢かったが、好かれる男ではなかったらしい。

 

一つのエピソードを教えてくれた。

 

あるテストで、彼は100点満点の答案を書いた。
賢いから、ここまでは当たり前の話だ。
しかし、賢いので、彼はこのテストで遊んだ。

答案用紙の回答を、見えるか見えないかくらいまで消しゴムで消したのだ。
教師も困ったろう。

普通にすれば答えが消えているから0点だ。
しかしよく見れば全問正解の答えがかすかに見える。
だったら100点だ。

嫌味な生徒というしかない。

教師の困り顔を見て薄ら笑っていたそうだ。

 

教師もなれたものだ。
100点にする。


元々賢いのだから、敢えて0点にしたところで意味がない。
村上龍の手のひらで踊らされるだけだ。

 

カンブリア宮殿」を見ていて、なるほどとうなずける。

嫌味な性格は昔のままだ。

 

つまるところ、なんだな。
小説家は性格的にロクな奴がいない。
酷い性格だから、小説家になれるんだ。


だから私は小説家になれないんだ。

とまあ
ひどい三段論法で話を終わらせることになるが

五分後の世界

読んでがっかりはしない小説ではある。

一度は読んでみて、冗談キツイ、と苦笑しながら、じっくり村上龍の本音を探ればいい。

 

一筋縄ではいかない作家のようだ。
それが私の感想です。

 

fuura0925.hatenablog.com

孤独の好きな 文学者たち

文学というか

小説家、あるいは詩人になりたいと思っている人は

意外とナイブーな人が多い

 

そもそも論だが

何かを表現したいと思う欲求は

ストレスがいびつに固まったマグマの

叫びだと思うから

過去になにかしらの(嫌な体験)があった人が多い

 

誤解を恐れずに、わかりやすく言えば

過去にトラウマを持った人が多い

 

ポジティブにふるまっていても

よくよく話を聞いてみれば

心の奥底に

黒くどろりとしたものを持っている

 

家庭環境も

愛情に満ち溢れた育てられ方を

した人は少ない

 

そんな人が文学と向き合い

そこで吐露する(書く)ことで

ものすごい作品が出来上がるわけだ

 

最初に語ったように

文学を志す人は孤独が好きだ

孤独になってしまう

 

しかしだからといって

孤独が本当に好きなわけではない

むしろ、語り合うことが好きな人が多い

 

ただ語り合う内容が特殊だ

 

孤独というテーマを、文学という物に形を変え

討論する

文学を語ってはいるが

実は孤独を語り合い、共有し合っているのだ

 

人間の本質は孤独にある

孤独を知るには

自由が必要だ

だからこそ自由を阻害するものに

立ち向かいたくなる

 

文学は

あるいは

芸術は、孤独を求めて旅する求道者に近い

求道者は自由を求めるあまり、己の立ち位置を忘れる

そして、簡単に

暗闇の中に落ち込んでしまう

 

だからこそ、仲間が必要なのだ

仲間がいなくては、真の孤独は見つけられない

 

孤独の本質を求めるため

是非

文校ブログ - 詩と小説 大阪文学学校

に入学することを

お勧めする

 

大阪文学学校のコンセプトはこうだ

こう考えたら見えないものが見えはじめる

ふつう、小説では虚構(フィクション)が、詩では暗喩(メタファ)が、構造の根底と考えられています。
つまり、小説や詩は、自分以外のどんな世界でも自由に生きることのできるジャンルです。
もう一回青春があったら、と50歳のあなたが思うなら、ハタチの主人公を登場させて作品世界で生きるがよい。

 

男のあなたが女になりたければ、それにふさわしいヒロインを登場させればよい。虚構とは、自分という限界をのりこえられるたった一つの魔法だ!


見えないものが見えはじめるとは、こういうことです。

そして見えないものを見ることで、自分を大きく育ててみませんか。 

それをたがいに刺激し合い、触発し合って、ともにやっていこうというのが<大阪文学学校>です。

 


学校というのは便宜上の名前、ほんとうは<心のオアシス><知的遊園地>あるいは<寺小屋><道場>などと名のったほうがよいのかも知れませんね。

 

 

もしあなたが

今、漠然と不安に感じるものがあるとしたら

それは、たぶん

この学校で仲間と語り合えば

見つける事が、出来るかもしれません

 

 

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詩はむつかしい。私にはさっぱりわからない

詩がわからない

どう書いていいのかわからないのではない

どう味わえばいいのかがわからないのだ

 

昔詩の選考会に出たことがある

素人の私が半プロが書いた詩の中から優秀作を選ぶのだ

出来っこないと思ったが

いいや、君の感じたままいいと思う物を選べばいいと言われ

選考委委員になり、選んだのだが

私が選んだ五作の中には、一つも優秀作は入っていなかった

 

それから、何故か詩を書くようになった

誰かに教わったわけではない

自由に、思うがまま、それでいいと思っていたが

ある日、私が書いた詩がひどくコケ降ろされた

 

まあ、素人だからしかたない

評価してるのは詩集も出し、有名どころの賞も

とってる御仁だ

 

君には詩は向いていない、やめなさい、小説だけに絞りなさいと

はっきり言われ始めて、カチンと来た

 

元々好きで書いてたわけでない

書くと落ち着くから書いていた

一種のカタルシス

 

それなのに全否定されると、さすがに負けん気がむくむく

 

そこで詩と聞けば有名な 中原中也

彼の作品を読んでみた

この詩は、彼の中でも有名な詩だ

 

 

汚れっちまった悲しみに・・・・・・

汚れっちまった悲しみに
今日も小雪の降りかかる
汚れっちまった悲しみに
今日も風さえ吹きすぎる

汚れっちまった悲しみは
たとえば狐の革裘
汚れっちまった悲しみは
小雪のかかってちぢこまる

汚れっちまった悲しみは
なにのぞむなくねがうなく
汚れっちまった悲しみは
倦怠のうちに死を夢む

汚れっちまった悲しみに
いたいたしくも怖気づき
汚れっちまった悲しみに
なすところもなく日は暮れる……

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いい詩だ

並びも調べもいい

 

じゃあ、どういいのだと考察すると

はてさて、言葉に詰まる

 

悲しみが汚れる

この発想がいい

 

とこの辺までは思いつくが

正直(この程度私にだって書ける)

と思う自分もいる

 

傲慢だと思う

のぼせ上がっているとも思う

しかし

しかしだ

 

本当にわからないのだ

 

詩の味わい方が

 

書く時は迷わない

すらすら書ける

 

しかし、人が書いた詩を吟味する時

手が震える

唇が乾く

そして、頭の中が空白になる

 

結局口から出るのはこの一言

 

現代詩はむつかしい

 

詩と文学の学校

文校ブログ - 詩と小説 大阪文学学校

で、一緒にまなびませんか?

 

 

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